松岡錠司『深夜食堂』

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すばらしかった。とにかく全部良かった。

この映画は3部構成である。高岡早紀多部未華子筒井道隆がそれぞれのパートの主役を務める。これらのパートはそれぞれ独立しており、それぞれのエピソードに「ナポリタン」「とろろ飯」「カレー」と、原作やドラマ版と同様にタイトルが付けられている。それらの話は基本的にすべて別々の話ではあるのだが、それがどこかで繋がっていて、またそれぞれの話が別の話のスパイスになっている。高岡早紀の話は「序破急」の「序」に該当する。多部未華子の話は「破」に、筒井道隆の話は「急」に該当する。

この手法はまさに庵野秀明が『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』でやろうとした試みに近いと思う。庵野は新劇場版でエヴァを破壊しようとして、それにできたり、時にはできなかったりと獅子奮闘することでエヴァを刷新した。松岡が今回の映画版でやろうとしたことは、『深夜食堂』という強固なフォーマットへの挑戦だと思う。

それはあまりに素晴らしすぎる高岡早紀パートにおけるドラマ版の踏襲を経て、多部未華子のパートで本格的に描かれる。

予告編でもあった多部未華子の「ここで働かせてもらえませんか」こそが『深夜食堂』を壊す爆弾だ。詳細は控えるが、ここではある事情から「めしや」に多部未華子が駆け込んでくる。最初はお客として、その次は住み込みの従業員として。マスターの聖域に一人の女の子が入り込むで『深夜食堂』は別の側面を描かざる得なくなる。つまり「マスターって本当は一体何者か」に向かい合うことを強いられるのである。

深夜食堂』のマスターは謎である。そこには原作者の意図も込められている。

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松岡監督は「そのことには触れてはいけないという原作の方の意向があります」としながらも、「修羅場を経験してきた“記号”なんです」と自らの見解を示した。

結果から言えばマスターの素性そのものが描かれることはなかった。しかし多部未華子が駆け込んでくることでマスターの生活、それから「めしや」の別の部分がほんの少しだけ描かれるのである。

その少しの違いを描くために、多部未華子は「朝」を引き連れてやってきた。多部未華子のパートでは光の射す時間帯が描かれる。数々の出会いと別れを描いていた『深夜食堂』のなかなか見ることのできない光景だ。しかし、それでも変わらないこの物語の強さに僕は驚くことになった。多部未華子は『深夜食堂』を破壊し、再生させるために招かれた天使なのだろう。多部未華子が自分を取り戻す物語は『深夜食堂』が生まれ変わることと同義だったのだ。

 

そして第三部の主役は筒井道隆。描かれるのは震災。ここでも詳細は控えるが、松岡監督をはじめとした製作陣の性格の悪さというか、ひねくれ加減が本当に最高だった。被災した人がポジティブだとは限らないし、ボランティアがすべて正しいとは限らない。人を失うとはどういうことか。そのようなテーマを淡々と、観ている人を泣かせようとしないのが『深夜食堂』の素晴らしいところだと思う。

物語はそれで終わらない。最後に登場するラスボス田中裕子。彼女がすべてをひっくり返す。これこそが娯楽映画だ。

 

ドラマの映画化ということで、穿った見方をしている人もいるだろうし、映画館に行く動機としては物足りない人もいるだろう。僕もそうだった。しかし『深夜食堂』の映画化は大正解だと思う。これは元々映画だったのだ。

俳優陣が全員すばらしかった。ありえない濃さなのに、それが目立ってない。主張しすぎない。舞台もありえないほどの緻密さで作られていた。筋書きも演出も言うことがない。ドラマを知らない人もぜひ。最高だから。

余談1。多部ちゃんはとにかく絵になってた。色気が充満する深夜食堂の舞台で唯一まっさらな色気を醸し出していたと思う。かっこ良かった。余談2。飯島奈美さんによる「土楽」の土鍋。おそらく「ベア一号」だと思うんだけど、あれはやり過ぎ。余談3。スタッフロールを見るまで向井理が出ていたことに気づかなかったよ……。