2017年の変化について

ネットのニュースを漁っていたら年末の「笑ってはいけない」の浜田の黒塗りメイクが批判されていた。

私の気持ちは半々です。半分の私は、日本のテレビコメディーや音楽でブラックフェイスを見るたび、見下されたような、馬鹿にされたような、そして表面だけを見られて、人間性を否定されているような気分になります。私の肌の色が、私自身の人間性が、芝居の小道具、あるいは脚本にされたかのように感じるのです。

しかし、もう半分の私は、『彼らは子供で、わかっていないだけ。だから我慢しなきゃ』とも思うのです

その通りだと思う。この言説に対して批判する気はないです。ただ、僕はこの浜田の黒塗りメイクを見て本当に何も思わない側の人間だった。「とんねるずのみなさんのおかげでした」の保毛田保毛男騒動の時はまだ「これまずいかも」と思った。

僕は正直とんねるずが好きだから、今でも擁護したい気持ちはある。あそこに悪意はなかったのだ。そしてあの笑いによって救われていた人たちもいたのだと。だけどそれと同じくらい、保毛田保毛男が許されない時代になりつつあることも実感している。

そしてはあちゅうさんの騒動もあった。

少し話は逸れるけど日馬富士の事件もあった。

許されるもの、もしくは許容されていると認識していたものが徐々にそうではなくなり、そのルールに適応できない人、もしくはルールに衝突してしまう人たちが騒動になり僕らの前から姿を消していく。

もちろんその背景にはこれまで抑圧されていた人、具体的に言えば差別、セクハラ、暴行を受けながら泣き寝入りしてた人たちが声を上げだしたことがある。もちろんそれらの声が結果的に抑圧されていた人たちの一部でも救うことになればそれは素晴らしいことだと思う。

けれども果たして本当にこれらの変化が社会全体にとってプラスになっているのか。最終的にマイナスになっているのではないか?という疑念が最後まで付きまとう。まあ歴史を見てもこれらの問題で声を上げることがマイナスになったことは殆ど無いから心配することでもないのかもしれないけど、それでも実際のその変化の最中を眺めていると「これで良かったのか?」が頭を過る。

差別を許すべき?そうは思わない。

セクハラを許すべき?そんなわけない。

暴行を見逃すべき?だとは思わない。

だけど、これらの変化の先にある未来が超がつくほどの少子高齢社会、その先にあるであろう移民の流入に伴う社会の断絶。そして払拭することのできない財政破綻の可能性、及び僕自身の加齢。

一寸先は闇。まあ2017年は身内が大きな病気にかかったらなおさらそう思うのかもしれないけど、うだうだ悩むことが多かったです。悩んでも仕方がないのはわかっているのですが。2018年はいい年にしたいですね。