高橋徹也『The Endless Summer』

相変わらず日々に追われているというか、油断しているとものすごい速さで時間が流れる。高橋徹也の新譜は言うまでもなくすばらしかったのだが、あちらに上げたきり忘れていた。気がつけば20日も過ぎていて焦る。

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あちらで書けなかったことを少しだけ。

 

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「The Endless Summer=永遠の夏」という言葉から連想するもの、それは時に甘美なものであり、時に嫌な汗がにじみ出るようなものではないか。

毎日がなつやすみだったらいいのになぁ‥‥

そんなふうに誰かが歌っていたし、僕もそう思っていた。今もそう思っている。いつまで続く幸せな毎日。実際は8割退屈な毎日だけど、それはそれでいいのだ。しかし、時にそんな甘美なサマーバケーションとしての夏が重くのしかかる時もある。例えば「涼宮ハルヒの憂鬱」における「エンドレスエイト」のように。

もちろんこれはあくまで架空の話であり、夏休み最後の8日間が永遠とループされ、そこから抜け出すことが主眼として作られた物語だ。しかし、もし仮に実際に永遠に思えるような長い夏を謳歌している人がいたら、はたしてそれを幸せと呼ぶことができるだろうか。

 

さて、高橋徹也はこのアルバムのハイライトとなる「夜明けのフリーウェイ」はこんな歌い出しから始まる。

映画の幕が下りるように
長い旅の果てに
すべてを変えられると思っていた

今はそれがもう叶わないと
わかっていてもまた
夜明けを待たずにこの街を出て行くのさ

この歌の主人公、それが高橋徹也本人を示しているかは「神のみぞ知る」だが、それはともかくとして、この歌の主人公はある種の喪失を抱え、外の世界へ飛び出していく。

星が螺旋状になって舞い上がる
夜明け前の空
誰もまだ見たことのない朝日が
さよなら緩やかなカーブの先へと
続く世界へ 

星が螺旋状に舞い上がり、誰もまだ見たことのない朝日が彼を祝福しているような美しい歌だ。しかしこの場合、過去もしくは夏、それらはディストピアを意味していたのだろうか?

僕はそう思わない。

まあ楽観的にもほどがある僕だけど、ユートピアであろうがディストピアであろうが夏は所詮夏であり、いつかは終わるものなのだ。そしてまた夏がやって来る。今いる場所がどれほど幸せなものであっても、そこには終わりがやってくる。逆に今いる場所がそんなに不幸であっても、それが永遠に続くことはない。終わりが来たらただアクセルを踏み、次の世界へ走りだせばいいのだ。

なんてシンプルな結論。所詮は歌である。でも歌はそれでいいのだ。

高橋徹也自身、こう書いている。

子供の頃、日曜日の夜になると週末の楽しかった時間が終わってしまう気がして切ない気持ちになった。(中略)それは言ってみれば過ぎ去っていくものへの郷愁であり、同時に新しい航海への予感でもある。そんな過去と未来の境界線上で、一瞬の火花のように輝きを放つのが、ここで「夏の終わり」と呼ぶもの、そして今回のアルバム・タイトル『The Endless Summer』ではないかと思っている。(存在しないはずの夏『The Endless Summer』に寄せて text by 高橋徹也 より)

時に甘美に響き、時に重くのしかかる夏というものの永遠性から抜け出す行為そのものが、夏という青春そのものに身を置くための条件ではないだろうか。

下手くそな上に矛盾している説明をしておいてなんですが、そんなことを思ったのであります。説明できてないな。でも間違いなく名盤です。今からでもぜひ。入手しにくいかもしれないけど増産するとのことです。